マチネの終わりに

 この小説は、クラシックギタリスト・蒔野聡史と国際ジャーナリスト・小峰洋子の恋愛を軸としている。初出は毎日新聞における連載(2015年3月1日~2016年1月10日)、単行本は2016年4月に出版、文庫本は2019年6月10日に出版、2019年11月には映画化されいる。映画では、蒔野聡史役は福山雅治・小峰洋子役は石田ゆり子が起用されている。予め言っておくが、私が読んだのは文庫本で、2度読んでこの感想を書いている。映画はまだ観ていない状態だ。文庫本刊行時には映画化が決定していたため、必然的に蒔野を思い浮かべるときは福山雅治が、同様に洋子には石田ゆり子の顔を浮かんだ。単行本出版当初から読んでいる読者と比べれば、その点に違いがあり、印象が変わって来る可能性があるだろう。ただ、特に洋子について外見的な描写が細かくされており、それを踏まえても、私は石田ゆり子が適役だと感じた。

 色白の小さな顔に、艶のある黒い髪が、やや張った肩に足でも組んでいるかのように掛かっている。鼻筋の通った彫の深い造りだが、眼窩は浅く、眉はゆったりとした稜線を描いている。二分ほど開き直したかのような大きな目は、少し眦が下がっていて、笑うと、いたずら好きな少年のような潰れ方をした。

 細く白い首には、黒と萌葱色のチェック地に、花柄がちりばめられたストールを巻いている。軽いダメージのデニムが、まっすぐに伸びた足によく似合っていた。

 方や蒔野については、音楽家としての描写や静かに内面を語った記述が多いので、福山雅治も適任だろう。蒔野聡史は、高校生の時にパリ国際ギター・コンクールで優勝した人物で、世間から若年期から「天才」と評されてきた。2つ年上の洋子は、その直後のサル・プレイエル(パリ・8区にあるコンサートホール)でのコンサートで、蒔野の存在を知ることとなる。当時、洋子は同世代に対して初めて嫉妬を感じることととなった。それは、洋子の父:イリコ・ソリッチ(クロアチア人映画監督)の作品「幸福の硬貨」のテーマ曲を立派に演奏し、拍手喝采を浴びたからである。許せない、すごく不機嫌になったとまで語っている。  

 それから20年後から物語は始まる。私は、大学時代にクラシックギターを演奏した経験があることから、一度目は自然と蒔野に感情移入することが多く、二度目ではより洋子の側を意識して読もうとした。作者:平野啓一郎の序文によると、二人にはモデルとなった人物がいて、彼らは40歳という、人生の道半ばにして正道を踏み外しつつあり、独特の繊細さを持つ不安定な年齢に差し掛かっていたという。私自身も30代となり、自分が人生の折り返し地点にを迎えつつあり、これから老いていくことを漠然と意識し始めるような年齢に差し掛かっていると言える。周りの同世代が、結婚や子どもを持つようになるなか、何も手にしていない私は、否が応でも自分の人生を見つめ直すことを余儀なくされている。未熟な20代の自分から大人にならなければ、幸せは掴めないだろうと考える度、純粋さが失われていくようで、どうしてかは上手くいない暗い森の中へ迷う込むようになってしまっていた。そんな中、この作品は個人的な境遇とも重なったこともあり、私にとって、光とも救いとも言える作品となった。

 

 またしても前置きが長くなってしまったが、この小説の全体を語ろうとするとは意味のあることとは思えず、却って作品の世界観を崩してしまうので、個人的に気になった点を述べていきたい。

 

 出会いの長い夜から、二人の会話は最初から尽きることのない性質ものだった。帰り際にタクシーの窓越しに見つめ合った、お互いの表情が、いつまでもフィルムネガのよに残ることになる。物理的な距離が離れ、絶望と向き合ったとき、自分がどんなに相手を愛しているかに気づくこととなる。そうなると、出会った時から、自分はあなたを愛していたのだと考えるようになり、過去は未来によって美化される。

 蒔野は  恋の効能は、人を謙虚にさせること  だと気づく。

 社会に出て、歳を重ねると自信を持って物事に取り組むことや発言に責任を持つことが求められる(昨今の政治家の言動を鑑みると、それとは程遠いことは事実だが・・・)。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、情熱の枯渇より、愛されるために、自分に何が欠けているかという、澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうのが原因だという。愛する人に憧れ、ときに尊敬に近い感情を抱き、あの人に愛されるために美しくありたい、あの人に相応しい存在でありたいと切に願う。思い詰めると、あの人に愛されていない未来は受け入れられないという、一種の強迫観念に襲われるようになる。カサブランカにおけるハンフリー・ボガートのように、愛を失ってでも大義を守るのが、本当の男らしさかもしれないが、私にはできそうも無いことだ。仕事や趣味は一時的な慰めを与えてくれるかもしれないが、どんなに代償を伴ったとしても、愛を知らない人生はやはり寂しいものだと思う。

 蒔野は、冒頭のサントリーホールでの公演から、コンサートもアルバム制作も休止し、音楽家として長期間の低迷期に陥る。天才と評される人は、若年期から名声を欲しいままにし突き進むが、人生のある地点まで来ると、今まで自分が目指した場所ではないという苦悩に苛まれるのではないか?その才能によって、他者と共感することは難しくなり、孤独を深めていくのではないか?そうなると、無意識でも、凡庸でありたいと願うようになるだろう。それはつまり才能を殺すことになり、言い換えれば(芸術家として)死に値する。洋子と出会った頃から、音楽家としての不調を感じるようになった蒔野は、(罪悪感から)不調が洋子の存在に起因するという仮説を拒絶する。また、洋子に結婚してほしいと伝えることは、アメリカ人の経済学者との婚約を破棄することを意味し、彼女に傷を負わせることだった。

 洋子にとっても、蒔野との愛は、一つの愛の放棄に見合うものでなければならなかった。涙を流して悲しむことも、罪悪感に浸ることさえ許されないのではないかと感じ、ただ蒔野のためだけの、彼が思うがままの存在でありたいと願う。未来を思案したまま向かったイラクでの赴任中に、洋子はバグダットのホテルで自爆テロに遭遇する。そして、あと1つ質問をしていたら、自分はこの世界に存在していなかったのだという「サバイバーズ・ギルド(生存者の罪悪感)」に侵されていると気づく・・・。

 このように物語では、それぞれの愛と追随するように、「贖罪」がテーマとなっている。

 

 話は変わるが、我々は今、かつて人類が経験したことのない不確実な時代を生きていると思う。このブログを書いている2020年初頭から、アメリカとイランの緊張は高まり、第三次世界大戦という言葉が現実味を帯びてきている。大国の思惑の絡んだ各地での紛争状況は常態化したままで、先進国の中枢都市で無差別テロが起こっても、人々は大して驚かなくなってしまった。イデオロギーの対立だけではない。地球環境問題は深刻で、毎年のように異常気象・大規模災害が数多く記録されている。残念ながら、日本のメディアは、このようなニュースを積極的に取り上げようとしないし、日本人の多くは他人事だと受け止めるか、関心はあっても自分の周りのことで手が一杯だと言い訳をするだろう。根底にある自分や親しい人が危険に晒されなれば、それで良いという考え方も理解できる。しかし、あまりにも鈍感になっていないだろうか?時には、この小説に登場する人物のような、極限状態にある人々の心情に思いをはせることも必要ではないか。人間の本質を理解するために。

 「幸福の硬貨」は、ユーゴズラビア紛争時のクロアチアが舞台で、当時の凄惨さは少し調べれば、すぐに知れる。主人公はリルケを愛する若いクロアチア人の詩人で、彼が思いを寄せるのはセルヴィア人の美しさと質朴さが同居する少女である。複雑的な政治的背景は、上手く捨象され、壊滅的な世界で傷つきならも惹かれあう二人の極限的な愛の物語だ。タイトルの「幸福の硬貨」は、リルケ「ドゥイノの悲歌・第5番」に登場する。

 天使よ! 私たちにはまだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?

 そこでは、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、得も言わぬ敷物の上で、その胸の思い切った、仰ぎ見るような形姿を、その法悦の塔を、疾く足場を失い、ただ互いを宙で支え合うしかない梯子を、戦きつつ、披露するのではないでしょうか?

 彼らは、きっともう失敗しないでしょう ~ 死者たちは、銘々が最後の最後まで捨てずにおいた、いつも隠し持っていた、私たちの未だ見たこともない永遠に通用する幸福の硬貨を取り出して、一斉に投げ与えるのではないでしょうか?

 再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たちに向けて。

 

 現代の歌で例えると、スピッツの「愛のことば」に通ずるものがある。

 

 限りある未来を搾り取る日々から 抜け出そうと誘った 君の目に映る海

 

 出だしから、本当に唸るようなセンスの良さだと感嘆する。

 

 リルケスピッツ反戦的なメッセ―ジと、本質的な愛について歌っており、美しい。

 個人的にマチネの終わりにを読み終えての感想は、他の読者と比べるものではなく、自分の心にそっと閉まっておきたい類のものだ。私は、蒔野のような才能を持たない凡人で、尚且つ洋子のような理知的な優しさも持ち合わせていないが、それでも、この作品を大切にすれば、暗い森の中でも光が見えるではないかと思わせてくれる。平野啓一郎の文書は簡潔で読みやすいにもかかわらず、示唆的な表現が素晴らしい。構成もしっかりしている。時折、東大王の問題に出てくるような難読漢字にも遭遇するのも面白かった。

 次は映画の世界で マチネの終わりに に出会いたい。