starwars rise of skywalker

 スターウォーズがついに完結した。私は、エピソード4~6を小学生頃に観て、R2D2(アストロメク・ドロイド)に愛を感じ、エピソード1~3は映画館でリアルタイムで観て、オビワン・ケノービがお気に入りのジェダイとなった。その他、スターウォーズ

品としては、エピソード4の直前の物語であるローグ・ワンとハン・ソロの青年期の物語であるハン・ソロスターウォーズ・ストーリーも観ている。

 さて、エピソード9に話を移す。タイトルロールの一言目から、「死者の口が開いた!」と皇帝が復活したことを知らせる。第2デス・スターの破壊後、パルパティーンの信奉者たちが身体を再生させたか、存命時に万が一に備えて密かにクローンを作っていたと考えられている。ただ、魂と記憶はどうやって戻したのか私にはわからない。シス卿の巨大はパワーが不可能を可能にさせたのだろうか?

 カイロ・レンは皇帝を倒すために、エクセゴルに向かうが「望むもの全てを手にできる」という、ダークサイドの誘惑に容易く負け、レイを探すことになる。個人的な所感とすると、銀河帝国と比べると、ファースト・オーダーは無慈悲さ、観客に与える恐怖感に欠けるが、何しろカイロ・レンはダース・ベイダーに憧れているシスで未完成のまま最高指導者となったし、ハックス将軍は人間味があって可愛ささえ感じる。

 結局は、皇帝を再登場させないと終わらなかったということだろう。気にする人は少ないかもしれないが、シーヴ・パルパティーンの出生の謎は、惑星ナブーに生まれたいうことしか明らかにされていない。今回、パルパティーン家に焦点が当てられたことには意義があると思うが、レイがシーヴ・パルパティーンの孫であるという事実は唐突で劇場では理解できなかった。最後のジェダイでは、レイの両親は何者でもない平凡な人物とされ、レイの期待を打ち砕いた。ルークはレイの出生の秘密を知っており、ジェダイとし訓練することで、ダークサイドに堕ちることを恐れたのだろうか。少なくともレイの両親は皇帝(父親)から隠れて生活していたこととなり、レイが生まれたのは、エピソード6の約10年後で、その後は帝国の残党や信奉者がレイを捜索することは帝国の再建に向け、必要だったのだろう。この辺りは、円盤化された際の特定映像で触れて欲しいポイントだ。

 レイは、ルーク亡き後、ジェダイに古く伝わる書物を紐解きながら孤独にトレーニングを行っていた。私は、デイジー・リドリーはレイにふさわしい人物だったと思うし、ジョージ・ルーカスの当初の構想では、ルーク・スカイウォーカーはルーク・スターキラーで、女性の設定だった。それを踏まえても、レイが女性であることは納得でき、時代にも即している。また、レイは幼い頃に両親と別れ、特定の人への「愛」を知らないことも大きな要素だ。ジェダイにとって「愛」は、欲望や執着を生む根源であり、ダークサイドとの繋がりを生む。ジェダイに許されているのは、見返りを求めない無償の愛だけである。アナキン・スカイウォーカーは言うまでもなく、ルーク・スカイウォーカーレイア姫を一目見たときから「何て美しい人だ。」と語り、父親をライトサイドに戻そうと尽力する。一方、レイにあるのは「仲間への愛」だ。レジスタンスとして生きていく中で、レイは多くの仲間と出会い、自分の居場所を見つけることができた。そして、今作の最後では自分のことを「レイ・スカイウォーカー」であると名乗る。スカイウォーカーの夜明けとは、スカイウォーカー家のサーガの終わりと、これからレイが歩む道を示唆している。単純かもしれないが、このことは自分の人生は自分で決められるというメッセージを発している。過去の作品では、アナキン・スカイウォーカーが「フォースにバランスをもたらすもの」と評されたこと等、どの人物も運命に定められていたことと対称的だ。

 JJ.エイブラムスが監督に戻ったので、正当派な作品になるだろうと予想していた

が、その通りだった。全体としては往年のファンを意識した作りで、泣きそうになっった場面もいくつかあった。さらに、今までのスターウォーズではあり得ないとされていたこと(物体が瞬間移動して手元にやってきたり、皇帝のフォースライトニングでレジスタンスのシップが機能停止したり、自分の命と引き換えに他者の命を救えたり)も何個かあって、最後なので何でもアリ感があった。全体としては、スターウォーズらしい面白さがあったし、何より2年の制作期間でこれだけの作品にしたのは評価できる。あえてマイナスな点を挙げると、ジョージ・ルーカスが第一線から退いたことやディズニーに買収されたことも影響しているのか、エピソード1~6にあったスターウォーズの風格(独特の雰囲気・余韻・空気感と表すべきか)が失われているのは残念である。

 しかし、スターウォーズは「遠い昔 遥か彼方の銀河系で」本当にこのような物語があったかもしれない、若しくは未来はこうなるかもしれないというロマンを与えてくれる。このことが私がスターウォーズに惹かれる一番の理由だと思うし、スカイウォーカーの夜明けもこの後何回も観て楽しみたい。そして、今後オビワン・ケノービのドラマシリーズがユアン・マクレガー主演で放送されることが決まっている。

 まだまだ旅は続きそうだ。

Fuji Rock Festival 2019 Day1

 初めてフジロックに行ったのは、2009年7月24日(金)で図らずもOasisの最後の来日ライブとなった日であった。フジロックに行ったきっかけは、大学のサークルの先輩に誘われてのことだったが、4人でギャラガー兄弟に会いに福島から車に乗り込み、苗場の地に向かった。私自身Oasisを観たのは、これが最初で最後の日(再結成が無ければ)となり、生で観るギャラガー兄弟のオーラに圧倒され、次々と繰り出される名曲に合わせて聞こえるフジロッカー達の合唱に包まれた時間であった。個人的には、ノエル・キャラガ―の歌声の方が好きなので、The MasterplanやHalf The World Awayに歓喜し、フジロックの一部である恵の雨デビューも飾った日であった。その日から私はフジロックの虜となり、毎年のように行くこととなる(3日間フル参戦でなくても)。今となっては、2009年にフジロックデビューを果たして4人が揃うことは叶わなくなってしまったが、もし会えたとしたら改めて伝えたい。あなた達とフジロックに行けてよかったと。

 

 さて、2019年は2009年から10年の節目の年であり、過去に一度もブログでフジロックについて書いたことがなかった。しかし、今回初めてブログを残してみようという気になった。

 

 金曜日に自宅を6時に出発して、越後湯沢駅近くの旅館に着いたのが7時30分。予定では、東京方面から新幹線でやって来る友人と8時に旅館で待ち合わせであったが、関越道をThe Chemical Brothers(初日のヘッドライナー)を聴きながら飛ばしため、少々早く着きすぎたようだ。8時過ぎに無事落合い、越後湯沢駅から苗場行きのシャトルバスに乗る。

 

 苗場に到着したのは9時30分くらいだったと思う。まず、場外エリアでアーティストグッズを入手すべく、行列に並ぶ。しばらく並ぶので、友人とハイネケンを片手に乾杯して話をしながら待つ。友人に物販店舗を運営している会社のTwitterアカウントを教えてもらい、最新情報を見ながら買うグッズを考えることができた。やはり現地に行っても、James Blakeのグッズは見当たない(加えて言うなら、今までのライブでJames Blakeのグッズは見たことがない)。JBはグッズを作らない主義なのだろうかという仮説は自分の中で、ほぼ確信に変わった。そこで狙いをDeath Cab For Cutieに切り替えると、Tシャツ3種類とタオル&トートバックを用意してくれていた!友人がそのうち1種類Tシャツを買い、私はデスキャブグッズとして、その他の2種類のTシャツ(1つはギザの3連ピラミッドのようなモチーフに、太陽が沈んでおり、裏にNiigataと書いてあるもの、もう一つは黄色い太陽が沈む様子を表現しているカラフルなものである)とタオルを購入した。それともう1点、LumineersのTシャツ(映画Call Me By Your Nameに登場しそうな彫刻が描かれている)。今回はグッズ購入まで3時間を要したので、グリーンステージのオープニングアクト Red Hot Chilli Pipers(通称レッチリ)を泣く泣く見送ることとなってしまった。

 

 (編集中)