愛がなんだ(小説)

 愛がなんだは、角田光代による小説で、2003年3月14日に刊行された。2003年は、ノラ・ジョーンズグラミー賞を席捲し、itunes music storeがスタート、アメリカ主導でイラク侵攻作戦が開始、アーノルド・シュワルツェネッガーがカリフォルニアの州知事に当選した。日本では新型肺炎SARSの猛威が騒がれた。そんな年である。

 

 タイトル通り、愛がなんだは「愛」についての小説だ。まず「愛」の定義について調べてみる。

・対象をかけがえないのないものと認め、それに惹きつけられる心の動き。

・相手をいつくしむ心。

・人間の根源的感情

・何事にもまして、大切に思う気持ち

キリスト教ではアガペー(見返りを求めず愛しむこと)

・仏教では渇愛。人や物に囚われ、執着すること。

 愛は哲学や宗教とも関わり続けて、人類にとっては命をつなぐ水のような存在だったようだ。宇宙でも水が存在しなければ、生命は誕生できない。

 

 本書では、20代後半のテルコがマモちゃんに全力の片思いをぶつける。

 私はただ、ずっと彼のそばにはりついていたいのだ。ダメでかっこよくないところも、全部を好きだと思ってしまったら、嫌いになることなんてたぶん、永遠に、ない

 だけど、肝心のマモちゃんは、テルコのことが好きじゃない。親友の葉子は、言いなりになるテルコに、「やめときなよ、そんなおれさま男。」と忠告する。

 感想を結論から述べると、(登場人物と生まれ持った境遇や気質が違うせいか)私にとって期待した内容と結末ではなかった。大人の片思いは、もっと内向的で、相手のことを気遣い、美しさを見出そうとするモノだと思う。テルコは、ストーカーが私のような女を指すなら、世の中はもっと慈愛に満ちていると自己認識する。1秒でも長く、マモちゃんのそばにいたい。電話がかかってきたら、すぐ声が聞きたい。そこにあるのは、心が高校生のまま大人になったような、恐ろしくリアリティのある形のない愛だ。

 振り返ってみると、子供の頃の恋は、片思いがほとんどだった(両思いだと感じても、恋に恋していると評されるような、興味本位での恋も多いのではないか)。大人になるにつれ、実る見込みのない片思いに価値を見出さなくなり、あたかも自分で納得できるような理由を見つけて、実りのない恋を終わらせる。周りの人々も当人に、徒労に終わるだけの恋はすぐに諦めて、違う人を探した方が得策だと助言する。

 本当の恋がそんな浮付いたモノだったとしたら、かけがえない存在であるはずの好きな人を、軽んじているのではないか?自分を愛してくれる人を所有したいという欲望に執着しているだけではないか?本当の愛とは、自分の命より相手の命が大切と思えるような、周囲が一概では理解できないようなモノだと思う。「マチネの終わりに」において、蒔野聡史が「地球上の何処かで、洋子さんが死んだら、僕も死ぬよ。」と小峰洋子に語るシーンがある。蒔野が冗談ではなく、そういったことが分かる。命を賭けているから、時に無責任過ぎるとも思える表現が生まれるのだろう。

  

 昨年から、何でサッカーをこんなにも好きになったのか考える。例えば、フリーキックで蹴られたボールが綺麗な放物線を描いて、ゴールに吸い込まれていく様子を、自分の恋の未来と無意識に重ね合わせているとか、ゴールキーパーのスーパーセーブを見て、どんな苦難も受け止められると勇気づけられるとか、何個か思いつく。つまり、未来を信じさせてくれ、楽しみにしてくれるからだろう。

 

 きっと愛がなんだは映画で観た方が、より感情が揺さぶられるし、愛について誰かと語りたくなる。ホームカミングスの音楽も素晴らしいし、観るべきと感じた時に映画を観るつもりだ。