未必のマクベス

 何も知らないまま、この小説を読み進めた。タイトルからして「未必」(意図的に実現を図るものではないが、実現されたとして構わない。刑法上では未必の故意を言う言葉で用いられる)の意味を知らなったし、シェイクスピアの「マクベス」も読んだことがなかった。加えて、早瀬 耕という人物も全く知らなかった。それもその筈である、彼は本書が22年ぶりの長編小説の刊行なのだから。

 早瀬 耕は、1967年生まれ。一橋大学商学部経営学科を卒業後、1992年「グリフォンズ・ガーデン」で作家デビュー。22年間の沈黙を経て、2014年本作を発表した。特に作家以外の仕事をしていたとの情報はない。

 シェイクスピアの「マクベス」は、1600年頃に書かれた戯曲で、シェイクスピア四大悲劇(他はハムレット・オセロー・リア王)の一つである。マクベスは、11世紀にスコットランド王として在位したマクベタッド・マク・フィンレックをモデルとしている。内容を要約する。

 3人の魔女の"fair is foul,and foul is fair."という科白から幕が上がり、マクベスとバンクォーは荒野で3人の魔女と出会う。マクベスは、「コーダーの領主、いずれは、王になるお方」と呼び止められる。バンクォーは「マクベスより幸せなお方。王を生みはするが、王にはならぬお方」と予言する。魔女の予言の通り、(マクベス夫人にそそのかされ)ダンカン王を暗殺し、スコットランド王となったマクベスは、バンクォーに与えられた予言が現実となることを恐れるようになる。そのため、マクベスはバンクォーとその息子フリーアンスに暗殺者を送り二人の抹殺を図るも、フリ―アンスを取り逃がしてしまう。心も血に染まったマクベスマクベス夫人は、再び3人の魔女を探し出し、「女の股から生まれた者は、マクベスを殺すことをできない。」・「バーナムの森がダンシネーンの丘に向かって来るまでは、マクベスは決して滅びぬ。」という予言を得る。しかし、最終的にマクベス夫人は心の病から命を亡くし、森が動き、帝王切開で産まれたかつての家臣がマクベスを殺してしまう。

 以上が本作を理解する上での基礎知識だ。ただ事前にこれらを知らなくても、作中に説明があるので心配は無い。

 さて、本書の具体的内容に話を移す。IT企業Jプロトコルの社員:中井優一(ナカイ ユウイチ)は、東南アジアを中心に交通系ICカードの販売に携わっていた。同僚:伴浩輔(バン コウスケ)とともにバンコクでの商談を成功させた優一は、帰国の途上、澳門の娼婦:ソフィから予言を告げられる―「あなたは、王として旅を続けなくてはならない」。この時点から、中井優一は”マクベス”として運命の渦に飲み込まれていくことになる。

 中井には、初恋の人:鍋島冬香(ナベシマ フユカ)がいた。鍋島は、高校の同級生で、(かな氏名が近いため)3年間ずっと中井の後ろの席にいたが、二人が交わした会話で覚えていることは限られている。数学が得意な鍋島が文系のクラスを選択した後、

「3年間同じクラスで、出席番号が並んでいるなんて、すごいと思わない?」。

「中井と鍋島だからね。」 

 ー 1年生のバレンタインデーの放課後、「これ、いいから受け取って!」とリボンのかけられたチョコレートを鍋島から渡され、「こっちは、出席番号が並んでいる単なる義理だから!」ともう一つ彼女のスカートポケットに入っていた不二家の板チョコレートを渡された。そして、中井がちゃんとお礼をした相手は、リボンのかけられた小箱を鍋島に託した女子生徒の方だった。鍋島はホワイトデーに袋入りのミルキーキャンディを渡したのが、精一杯のお返しだった。大人になった今なら、鍋島が(「リボン付きチョコレートに騙されるほど単純じゃないよね。私は中井を信じてもいい?」)言いたかったことが分かる。卒業後も中井は、インフルエンザで寝込んだ時と、マチュピチュに旅行していた日以外は、鍋島のことを忘れた日はない。

 このように男は、いつも女の子の本音に気づかない。或いは、本音に気づいているにもかかわらず、気づいていないフリをしていることが大抵だ。それは単に恥ずかしさからなのか、本音に気づいてたとしても、相手に甘えて、自分が決断や責任を負うことを避けているか。理由はいずれにしても、中井は入学式の時に後ろを振り向いて鍋島と目が合った日から、今後も自分が鍋島のことを忘れることがないことと、人生において鍋島が一番大切な存在となることを知っていた。本書にも書かれている通り、たとえ入学式の日に鍋島冬香の魅力に気づかなくても、3年間席が並んでいなくても・・・・・彼女がぼくを選んでくれた気がする。ぼくが持っているかもしれない魅力は彼女のためにあって、彼女は的確にそれを探し出してくれただろう・・・・・。本当の恋とは、当事者同士でしか分からない何かを共有するものだと思う。

 鍋島との約束を果たせぬまま30代後半となった中井は、会社の上司で離婚歴のある田嶋由記子(タジマ ユキコ)と夫婦にも似た関係を築くこととなる。由記子は、他人から見れば部下と不倫して旦那を捨てた女で、最初はシェルターとして中井の存在を必要としていた。中井も由記子を受け入れ、次第にその優しさと包容力に支えられるようになっていった。何より、由紀子に嘘がつけないこと(嘘をついても見抜かれること)がお互いの絆を物語っていた。そして、読者に「由記子」はマクベス夫人なのだろうか?という問いを投げかける。

 少し前に出てきた中井の同僚、伴浩輔も高校の同級生で偶然同じ会社で働くこととなる。伴はその読みから、入学時に初老の女性教師から「バンコー」という渾名を付けれる。伴からすれば、その瞬間から”マクベスの戯曲”が始まったという。伴にとっては、その時から、中井がマクベスで鍋島がマクベス夫人だったのだ!伴によると、中井は北極星のように、意図しても意図せずとも(王として)世界の中心として君臨しているという。

 戯曲は進み、香港の子会社(Jプロトコル香港)の代表取締役として出向を命じられ香港に移住した中井は、やがてそこがアペンディクス(決して逃げられない場所)だと知る。そして戯曲の登場人物として、周囲の人々を巻き込んでいることも。

 始まりは一見、普通のサラリーマンだった中井優一が、気づかぬうちに王として旅に出ていたことを知り、人間の欲望や社会の闇と向き合うことを余儀なくされる。運命に定められたまま生きることを受け入れるのか、何かを犠牲にし、運命を変えようもがくのか迫られる。そこまで境地に至らなくても、似たような感覚は、誰しも抱いたことがあるのではないだろうか?どうせ自分はこうだから上手くいくはずないとか、(過去の経験側から)物事を諦めてしまいがちな傾向のこと。本書はその点にも疑問を投げかける。時に数少ない情報や問いかけからでも可能性に賭けてみる価値はあるということだ。

 

 6と9が点対称でなかったと仮定した時に、積み木カレンダーは成立するか否かを証明せよ

 

 という1つの問いで人生が変わったように。

 

 個人的には本書を読みながら、時間について考えることが多かった。過去に運命的な人に出会っていたとしても、些細なすれ違い(人々は大概、それをタイミングと表現する)で結ばれなかった両者は、将来再びめぐり逢ったとしても、元々の運命を取り戻せないのだろうか。そうさせるのは、時間の変遷に伴う人間的変容だと諦めるか、若しくは、我々は宇宙にある星々の周期のように、近づいては離れていく定めだと諦めるしかないのだろうか。読み終えて、運命を変えられるかの是非はともかく、誰かを強く思う気持ちを思い出させてくれ、嫌みのない感動を得たことは確かだ。

 読む人によっては、経済小説かミステリー小説としての側面が大きいと感じる人もいるだろう。話は長く(文庫にして約600p)、登場人物も多様で誰が本当のことを言っているかも定かではないので、一読で全てを理解するのは不可能に近いだろう。昔似たような小説を読んだことがあるなとしばらく考えて、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」村上春樹 作 だと思い出した。村上春樹の方はファンタジー性が強く、本書はより現代に寄った内容となっている。

 最後に、表紙カバーの写真について。夕暮れ時の香港のフェリー停泊場の写真だ。フェリーが建物に横付けされている。海にはさざ波が見られ、夕日を反射して所々薄オレンジ色に染まっている。背景には香港の高層ビルの影と淡いオレンジ色の均一な空が広がる。不思議なことに、本書を読み進めていくに連れて、カバーを見て抱く印象も微妙に変化していったのである。香港に行ったことはないが、その土地の匂いが感じられるとうで、実際に香港に行った時には、この場所を探すことになるだろう。なので、私はこの写真が好きになった。

 これも戯曲がなせる業だろうか?