すべて真夜中の恋人たち

 すべて真夜中の恋人たちは、川上未映子の小説で「群像」2011年9月号が初出である。

 「真夜中はなぜ、こんなにもきれいなんだろう?」

 この問いに私なら何と答えるだろうか。それは、きっと、遮ぎるものが何もないからと、咄嗟に問われたら、答えるかもしれない。三束さんは、真夜中には世界が半分になるからですよと、言っている。昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけの力で光ってみせるから、真夜中の光は特別だと言う。

 語り手(主人公)の入江冬子は、会社員でいることに疲れ、フリーランス校閲者となって3年間働いている。「校閲」という仕事は、誤字脱字や言葉の使われ方や内容に事実誤認があるか調べる、つまりひたすら間違いを探すという仕事だ。冬子は、他人からは鈍感に見られがちで、自分というものを持っているのか、自分でもわからない。ずっと、独りで生きていた。

 フリーランスになったのは、大手出版者の社員で、その会社の校閲局に所属している石川聖の勧めがあったからだ。聖は、誰に対してもはっきりとものを言う性格で、冬子とは真逆のパーソナリティを持っている(気質の初期設定がまるっと楽観的にできている)。共通点は2つ(同い年で長野県出身ということ)。何故か、聖は冬子のことを気にかけて、仕事以外の話もするようになる。冬子の全部が面白いと嬉しいそうに笑う。

 冬子には聖がいることが当たり前になり、聖にとっても冬子といると安らぎを感じるようになる。

 作中、なぜ知らない人のことをこんなにも考えることができるのだろうと不思議に思いながら、冬子は気づくと三束さんのことを思い出していた。

 好きな人のことをどれだけ知っているのかと問われれば、一緒に生活していても、表面的なことばかり目につくかもしれない。何をもって好きな人を理解したと言えるのか。知るためには、深く深く潜っていかなければ、その人の光も闇もわからないだろう。時に痛みを伴うとしても。

 電気を消すと暗くなる。電気がついていたときにあった時にあった光は物に当たって吸収されてしまう。最終的にごく一部が宇宙空間に逃げていく。最後まで残る光はない。冬子はショパンの子守歌を三束さんから教えてもらい、脳内に残るくらい繰り返し聴く。その先には光が待っているはずと信じて。

グリフォンズ・ガーデン

 グリフォンズ・ガーデンは、早瀬耕の作家デビュー作である。タイトルは、グリフォンズ(架空の生物で翼を畳んだ、龍のような顔をした、羽毛に覆われた怪獣)の石像が、小説の舞台となる新世代コンピュータ技術開発機構の研究施設に何体もあることから、グリフォンズ・ガーデンと呼ばれていることに由来する。小説はPRIMARY WORLDと DUAL WORLDという2つの世界が交互に語られ展開する。

 PRIMARY WORLD(1次的な世界)

 東京の大学院で修士課程を終えた主人公は、知能工学研究所に勤務するため、札幌の街を訪れる。札幌に到着する飛行機の中で、主人公は奇妙な天然色のゆめを見る。

 どこかの博物館で、フーコーの振り子があるんだ。ドーム状の天井はプラネタリウムになっている。案内の女性が「これは人間の意識を再現したものです」って説明してくれた。

 空港で婚約者の由美子から、

 過去にインプットされていない記憶ってあるかな?

 と問われる。過去においてインプットされていない記憶があるとすれば、未来においてインプットされるだろう記憶となるはずだ。しかし、記憶はすでにインプットされたもののことを言うから、未来においてインプットされた記憶というべきだ。そうなると、「未来」と「すでにされた」を並列することは、アリストテレス矛盾律から逸脱する。未来と記憶も並列できないことになる。空港から出るとき、知らない街の空港で、アリストテレスなんて、素敵だと言って由美子は笑う。

 早瀬耕の小説は、冒頭が素晴らしく示唆や暗示に満ちていると思う。フーコーの振り子とは、地球が自転することを証明するを証明するものだ。時間とともに振り子が回転するように見えるが、実際に回転しているのは、自分が乗っている地球の方だという実験に使われる。記憶を単純に定義するとすれば、何らかの対象を、脳や身体に保存し、再利用できるようにすることだろう。普段人間は、生きていくにつれて、記憶は累積していくと考え、どの程度記憶が変容し、どの記憶が失われて(忘れられていくか)把握することはできない。フーコーの振り子のある点から見える景色(プラネタリウムの星空)は、時間のともに移り変わり、不可逆的な世界だ。一周して元の位置に戻ったとき、星の輝きが過去と同じである保証はない。飛躍して想像すると未来において、過去の記憶がインプットされたとしても認知できないのではないかという発想となる。説明が難しいけれでも。

 主人公が配属されたソフトウェア基礎研究部門は、人間システム、とくに認知システムを解明しようとするもの。人間の認知システムに用いられるコードは、24進法であることが解明されている。24進法の根拠は、23種イオンの電荷の種類に(開放値は0)よることが知られている。しかし、ノイマン型コンピュータは2進法しか扱えないため、ソフトウェアで疑似的に24進法を実現する。主人公は、修士論文で人間の認知システムが23進法だと主張したため、研究所に招かれたようだ

 研究所には、遺産のような旧型のバイオ素子コンピュータが保管されている。バイオ素子は、多細胞によって構成され、入力されたデータが、どの細胞に記録されたかを確定できない。バイオ素子間のコピーによって、同じデータが重複して記録される。バイオ素子間のコピーで、疲弊した細胞のデータが欠落するリスクは人間に例えると「忘れる」ことだ。人間の記憶や意識を再現できると主人公は考え、バイオ素子コンピュータに完結した世界を創造しようと思いつく。

 1994年6月4日、主人公はバイオ素子コンピュータ「IDA-10」を使って、その中にもう一つの世界、DUAL WORLDを創造した。 

 

 DUAL WORLD(二元的な世界)

 ぼくは1968年6月4日午前11時54分生まれ。大学の教室で原価計算の講義を受けながら、22歳を迎えるのを待っていた。部屋に戻ると、高校から付き合っている彼女の佳奈からの手紙が届いていた。佳奈との色彩に満ちた思い出が語られた後、ぼくは、真っ白の部屋に閉じ込められる感覚遮断実験の被験者となる。全く情報のない世界で思考の鈍化、自意識の欠如に襲わる・・・。

 

 

 この小説の一部が、早瀬耕の卒業論文に使用されたとのことだ。なので、卒論テーマは人間の認知システムに関してだったのかなと、推測する。1990年代前半は、コンピュータが台頭して間もなく、まだフロッピーディスク等を使用していた年代だ。AIの実体が分からない時代に、主人公はDUAL WORLDに「人間らしく破綻のない」世界を創ろうとする。存在や時間、意識や記憶についての知的な会話がそれぞれの世界で恋人との親密な会話となって登場する。今読んでも全く古く感じることがないのは、私がこの分野に詳しくないことが主たる要因かもしれないが、興味深く読み進められた。

 科学的に脳のシステムをとってみても、各々の細胞は、思考と呼ぶには足らない作業をしているだけだ。それがコヒーレントに自己組織化して、人間の思考とか意識を生む出している。情報の自己組織化が、気づけば人間らしさを表しているなんて、本当に不思議だと浅はかにも実感する。

 世界はひとつであるいう常識(思いこみ)は好きではないし、今の宇宙はマルチバースであるという事実が通説となっている。現代哲学者のマルクス・ガブリエルが主張するように世界がフラクタルだという考えだ。この小説にも

 我々は宇宙を内包して、我々のいる宇宙もより大きな宇宙に内包されていて、そのより大きな宇宙もさらに大きな宇宙に内包されていて・・・。

 ある意味、ロマンのある世界で惹かれるけれども、私たちは現実を必死に生きていくしかない

 いつか/どこかで、この小説のような会話ができたらと願いながら。

ジョジョ・ラビット

  ジョジョ・ラビットは2018にプラハで撮影、2019年9月18日にトロント国際映画祭で上映され、日本公開日は2020年1月17日。監督はニュージーランドを代表するタイカ・ワイテイティで、原作はクリスティーン・ルーネンスのCaging Skeis。クリスティーン・ルーネンスは、1964年にアメリカで出生、国籍はアメリカ・ベルギー・ニュージーランドとある。モデルとして活躍した後、1990年にピカルディ(北フランス)に移住し戯曲や脚本を書き始め、2006年に家族とともにニュージーランドに移住した。エルサ役のトーマサイン・マッケンジーニュージーランド人のミレニアム世代で、総じてニュージーランド色が濃いと言える。

 

 舞台は第二次世界大戦中のドイツ。オープニングロールから、ビートルズの抱きしめたい(I want to hold your hand)が流れ、アドルフ・ヒトラーがまるでマッシュルームカットの4人のアイドルと同様に、観衆を熱狂させる。違うのは、ヒトラーの場合はヒトラーユーゲントと呼ばれるドイツの青少年団が皆左腕を突き上げている点だ。主人公のヨハネス・「ジョジョ」・ベッツラ―は、空想の友人ヒトラーの助けを借りて、立派な兵士を目指す。10歳のジョジョにとっては、愛する母とナチスへの傾倒が世界の全てだった。そこに、自宅の屋根裏にユダヤ人少女のエルサが匿われていることを知り、完璧だったはずのジョジョの世界が崩れていくこととなる。

 もし、ヒトラーに熱狂した少年が、ユダヤ人少女に恋をしたら?という問いかけが斬新で面白い。エルサは、年齢は18歳くらいなので、どちらかとうとお姉さんのような感覚だ。男の子なら、誰しも一度は、年上の優しいお姉さんに恋に似た感情を抱くだろう。エルサは生きることを諦めずに、いつか外で踊れる日が来ることを夢見ている。悲劇的な現実のなかでも、ユーモアを忘れずに人生を楽もうと未来に向けて歩こうとする。きっと、それはジョジョもエルサも愛する人から教わったのだと思った。

 史上最も凄惨な戦争は、空想の理想郷を謳う独裁者が現れ、人と人とが憎しみ合い、絶望が待っていた。リルケは、美も恐怖も全てを経験せよ、絶望が最後ではないと語っている。リルケは芸術を愛し、美しい人と恋をしながらも、第一次世界大戦の時に兵役を経験し、恐怖とは、絶望とは何かを知ってる。

 リルケにとって詩とは、絶望から未来に向けて抜け出す魔法の言葉ようなものだったのかもしれない。同じように、エルサのように暗闇に閉じこめられている人にとっても。 小沢健二で例えるなら、美しい詩集は、ポケットのなかで魔法をかけてくれる。

  また、反戦映画なのに、観ることが苦痛と感じるシーンが極力排除されており、純粋にジョジョラビットの世界に没入できるところも素晴らしい。

 最後のデイビッド・ボウイのヒーローズ(Heros)が甘美で切ない余韻となった。

 

愛がなんだ(小説)

 愛がなんだは、角田光代による小説で、2003年3月14日に刊行された。2003年は、ノラ・ジョーンズグラミー賞を席捲し、itunes music storeがスタート、アメリカ主導でイラク侵攻作戦が開始、アーノルド・シュワルツェネッガーがカリフォルニアの州知事に当選した。日本では新型肺炎SARSの猛威が騒がれた。そんな年である。

 

 タイトル通り、愛がなんだは「愛」についての小説だ。まず「愛」の定義について調べてみる。

・対象をかけがえないのないものと認め、それに惹きつけられる心の動き。

・相手をいつくしむ心。

・人間の根源的感情

・何事にもまして、大切に思う気持ち

キリスト教ではアガペー(見返りを求めず愛しむこと)

・仏教では渇愛。人や物に囚われ、執着すること。

 愛は哲学や宗教とも関わり続けて、人類にとっては命をつなぐ水のような存在だったようだ。宇宙でも水が存在しなければ、生命は誕生できない。

 

 本書では、20代後半のテルコがマモちゃんに全力の片思いをぶつける。

 私はただ、ずっと彼のそばにはりついていたいのだ。ダメでかっこよくないところも、全部を好きだと思ってしまったら、嫌いになることなんてたぶん、永遠に、ない

 だけど、肝心のマモちゃんは、テルコのことが好きじゃない。親友の葉子は、言いなりになるテルコに、「やめときなよ、そんなおれさま男。」と忠告する。

 感想を結論から述べると、(登場人物と生まれ持った境遇や気質が違うせいか)私にとって期待した内容と結末ではなかった。大人の片思いは、もっと内向的で、相手のことを気遣い、美しさを見出そうとするモノだと思う。テルコは、ストーカーが私のような女を指すなら、世の中はもっと慈愛に満ちていると自己認識する。1秒でも長く、マモちゃんのそばにいたい。電話がかかってきたら、すぐ声が聞きたい。そこにあるのは、心が高校生のまま大人になったような、恐ろしくリアリティのある形のない愛だ。

 振り返ってみると、子供の頃の恋は、片思いがほとんどだった(両思いだと感じても、恋に恋していると評されるような、興味本位での恋も多いのではないか)。大人になるにつれ、実る見込みのない片思いに価値を見出さなくなり、あたかも自分で納得できるような理由を見つけて、実りのない恋を終わらせる。周りの人々も当人に、徒労に終わるだけの恋はすぐに諦めて、違う人を探した方が得策だと助言する。

 本当の恋がそんな浮付いたモノだったとしたら、かけがえない存在であるはずの好きな人を、軽んじているのではないか?自分を愛してくれる人を所有したいという欲望に執着しているだけではないか?本当の愛とは、自分の命より相手の命が大切と思えるような、周囲が一概では理解できないようなモノだと思う。「マチネの終わりに」において、蒔野聡史が「地球上の何処かで、洋子さんが死んだら、僕も死ぬよ。」と小峰洋子に語るシーンがある。蒔野が冗談ではなく、そういったことが分かる。命を賭けているから、時に無責任過ぎるとも思える表現が生まれるのだろう。

  

 昨年から、何でサッカーをこんなにも好きになったのか考える。例えば、フリーキックで蹴られたボールが綺麗な放物線を描いて、ゴールに吸い込まれていく様子を、自分の恋の未来と無意識に重ね合わせているとか、ゴールキーパーのスーパーセーブを見て、どんな苦難も受け止められると勇気づけられるとか、何個か思いつく。つまり、未来を信じさせてくれ、楽しみにしてくれるからだろう。

 

 きっと愛がなんだは映画で観た方が、より感情が揺さぶられるし、愛について誰かと語りたくなる。ホームカミングスの音楽も素晴らしいし、観るべきと感じた時に映画を観るつもりだ。

月の満ち欠け

 『月の満ち欠け』は第157回直木賞受賞作である。現代の直木賞は、当初の無名若しくは新進作家の大衆文芸という規定からかけ離れ、実質的にはすでに作家としてのキャリアを積んだ者のための賞となっている。

 佐藤正午は、1955年8月25日、長崎県佐世保市生まれ。小説家になるために北海道大学文学部を中退、故郷の佐世保に戻り、2年がかりで書き上げた長編小説「永遠の1/2」ですばる文学賞を受賞。何故長崎からはるばる北海道大学まで北上したにもかかわらず、大学を中退したのか気になったが、小説を読み進めることとした。

 

 ある日の午前11時。小山内堅(おさない つよし)は東京駅に降り立ち、女優とその娘:るりと東京ステーションホテルのカフェで会う。小山内は、青森県八戸市市で育ち、東京の私大に進学後、石油元売りの中堅企業に就職。大学時代に同じ高校出身の藤宮梢と付き合い始め、結婚する。二人が初デートで観た映画は、タクシードライバー(1976年 監督マーティン・スコセッシ)だと言う。ロバート・デニーロが、愛に狂うタクシードライバーとなる映画は、全くデートに適さないと思うものの、小説を最後まで読むと何故タクシードライバーだったのか納得がいく。小山内の妻:梢のたっての希望で二人の娘は、瑠璃(るり)と名付けられた。このように、何人もの瑠璃(るり)という人物が登場する。一体、君は誰なんだ?という疑問を投げかけながら。

  瑠璃も玻璃も照らせば光る 

素質・才能のある人物はどこにいても、目立つ意)の の瑠璃。古代インド・中国における宝、アフガニスタンラピスラズリを指すものであろうとされ、後に色つきガラスも指すようになった。野鳥の世界でも、オオルリコルリルリビタキという三大青い鳥の呼名に瑠璃が含まれている。幸せの青い鳥というように、青い鳥と出会うことは幸福の予兆だとされる。それぞれの瑠璃という女性は、亡くなったとしても、愛した人にとって幸せの青い鳥のような存在となる。

 科学的に考えると、死後の世界は「無」だ。生きとし生ける者は皆、死ぬ運命であがなうことはできない。最近の研究では、不老不死に一番近い性質を持つ生き物としてハダカデバネズミが関心を集めているものの、永遠の命は、究極の非科学的な事象に感じる。だからこそ、古代から人類は未来に賭けて、伝説や宗教にみられるように、月の満ち欠けのように、死んで生まれ変わることを信じてきたのではないか。

 愛する人を失った者は、遺伝子を受け継いだ子に面影を探し、街で似た人とすれ違うと、もしかしたらあの人ではないかと錯覚する。果たせなかった約束を想い、あの人は死んでも死にきれなかったのでなないかと悔やむ。亡くなった原因が自分にあると思えば、なおさらだ。生きていれば築けていたであろう将来や未だ明かされていない秘密はあったのだろうかと順々に思いを馳せる。そして、新たな命として、愛するが生まれ変わったとしたら、もう一度出会いたいと願う。

 小説の中で、瑠璃と出会う三人の男は、言ってみればどこにでもいるような人物だ。夜の新幹線のホームで疲れ切った顔をしている男、町の工場で汗をかき手を黒くさせ毎日決まった時間に親の待つ家に帰る男、運よく出世コースに乗り会社の重役となった堅物な男、そんなリアルさがある。普段から他人の人生を垣間見るような仕事をしていると、(誠に不謹慎だが)他人の人生の価値を勝手に評価してしまい、その人に何が起こっても何も感じなくなってしまう深みに嵌る。他方で、現代はSNSが普及し、誰もが簡単に社会へ自分の人生の価値をアピールできるようになった。他人の人生の方が輝いているように感じられ、遂には他人と比べることに疲れ果ててしまう・・・。このような現象は、本来等しく扱われるべき命の見えない軽視であろう。

 ここに風穴を空けている。普通に見える人でも、忘れ得ない人生の出来事を持っているのでないか。常識では考えられないような、運命の赤い糸があるのではないか。

 個人的に読み終わって想起したのは、 チューリップ 青春の影 のような昭和に合う慎ましやかなカップル像だった。

 

 佐藤正午は、生まれ変わりという、ともすれば軽薄になりがちな題材を上手く纏め上げている。大衆に読まれることを意識しており、平易な内容で、若干物足りなくも思った。それでも、現代的な会話で、小説の良さを伝えているので、繰り返し読んでも楽しめそうだ。

 次の候補は 鳩の撃退法 だ。

マチネの終わりに

 この小説は、クラシックギタリスト・蒔野聡史と国際ジャーナリスト・小峰洋子の恋愛を軸としている。初出は毎日新聞における連載(2015年3月1日~2016年1月10日)、単行本は2016年4月に出版、文庫本は2019年6月10日に出版、2019年11月には映画化されいる。映画では、蒔野聡史役は福山雅治・小峰洋子役は石田ゆり子が起用されている。予め言っておくが、私が読んだのは文庫本で、2度読んでこの感想を書いている。映画はまだ観ていない状態だ。文庫本刊行時には映画化が決定していたため、必然的に蒔野を思い浮かべるときは福山雅治が、同様に洋子には石田ゆり子の顔を浮かんだ。単行本出版当初から読んでいる読者と比べれば、その点に違いがあり、印象が変わって来る可能性があるだろう。ただ、特に洋子について外見的な描写が細かくされており、それを踏まえても、私は石田ゆり子が適役だと感じた。

 色白の小さな顔に、艶のある黒い髪が、やや張った肩に足でも組んでいるかのように掛かっている。鼻筋の通った彫の深い造りだが、眼窩は浅く、眉はゆったりとした稜線を描いている。二分ほど開き直したかのような大きな目は、少し眦が下がっていて、笑うと、いたずら好きな少年のような潰れ方をした。

 細く白い首には、黒と萌葱色のチェック地に、花柄がちりばめられたストールを巻いている。軽いダメージのデニムが、まっすぐに伸びた足によく似合っていた。

 方や蒔野については、音楽家としての描写や静かに内面を語った記述が多いので、福山雅治も適任だろう。蒔野聡史は、高校生の時にパリ国際ギター・コンクールで優勝した人物で、世間から若年期から「天才」と評されてきた。2つ年上の洋子は、その直後のサル・プレイエル(パリ・8区にあるコンサートホール)でのコンサートで、蒔野の存在を知ることとなる。当時、洋子は同世代に対して初めて嫉妬を感じることととなった。それは、洋子の父:イリコ・ソリッチ(クロアチア人映画監督)の作品「幸福の硬貨」のテーマ曲を立派に演奏し、拍手喝采を浴びたからである。許せない、すごく不機嫌になったとまで語っている。  

 それから20年後から物語は始まる。私は、大学時代にクラシックギターを演奏した経験があることから、一度目は自然と蒔野に感情移入することが多く、二度目ではより洋子の側を意識して読もうとした。作者:平野啓一郎の序文によると、二人にはモデルとなった人物がいて、彼らは40歳という、人生の道半ばにして正道を踏み外しつつあり、独特の繊細さを持つ不安定な年齢に差し掛かっていたという。私自身も30代となり、自分が人生の折り返し地点にを迎えつつあり、これから老いていくことを漠然と意識し始めるような年齢に差し掛かっていると言える。周りの同世代が、結婚や子どもを持つようになるなか、何も手にしていない私は、否が応でも自分の人生を見つめ直すことを余儀なくされている。未熟な20代の自分から大人にならなければ、幸せは掴めないだろうと考える度、純粋さが失われていくようで、どうしてかは上手くいない暗い森の中へ迷う込むようになってしまっていた。そんな中、この作品は個人的な境遇とも重なったこともあり、私にとって、光とも救いとも言える作品となった。

 

 またしても前置きが長くなってしまったが、この小説の全体を語ろうとするとは意味のあることとは思えず、却って作品の世界観を崩してしまうので、個人的に気になった点を述べていきたい。

 

 出会いの長い夜から、二人の会話は最初から尽きることのない性質ものだった。帰り際にタクシーの窓越しに見つめ合った、お互いの表情が、いつまでもフィルムネガのよに残ることになる。物理的な距離が離れ、絶望と向き合ったとき、自分がどんなに相手を愛しているかに気づくこととなる。そうなると、出会った時から、自分はあなたを愛していたのだと考えるようになり、過去は未来によって美化される。

 蒔野は  恋の効能は、人を謙虚にさせること  だと気づく。

 社会に出て、歳を重ねると自信を持って物事に取り組むことや発言に責任を持つことが求められる(昨今の政治家の言動を鑑みると、それとは程遠いことは事実だが・・・)。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、情熱の枯渇より、愛されるために、自分に何が欠けているかという、澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうのが原因だという。愛する人に憧れ、ときに尊敬に近い感情を抱き、あの人に愛されるために美しくありたい、あの人に相応しい存在でありたいと切に願う。思い詰めると、あの人に愛されていない未来は受け入れられないという、一種の強迫観念に襲われるようになる。カサブランカにおけるハンフリー・ボガートのように、愛を失ってでも大義を守るのが、本当の男らしさかもしれないが、私にはできそうも無いことだ。仕事や趣味は一時的な慰めを与えてくれるかもしれないが、どんなに代償を伴ったとしても、愛を知らない人生はやはり寂しいものだと思う。

 蒔野は、冒頭のサントリーホールでの公演から、コンサートもアルバム制作も休止し、音楽家として長期間の低迷期に陥る。天才と評される人は、若年期から名声を欲しいままにし突き進むが、人生のある地点まで来ると、今まで自分が目指した場所ではないという苦悩に苛まれるのではないか?その才能によって、他者と共感することは難しくなり、孤独を深めていくのではないか?そうなると、無意識でも、凡庸でありたいと願うようになるだろう。それはつまり才能を殺すことになり、言い換えれば(芸術家として)死に値する。洋子と出会った頃から、音楽家としての不調を感じるようになった蒔野は、(罪悪感から)不調が洋子の存在に起因するという仮説を拒絶する。また、洋子に結婚してほしいと伝えることは、アメリカ人の経済学者との婚約を破棄することを意味し、彼女に傷を負わせることだった。

 洋子にとっても、蒔野との愛は、一つの愛の放棄に見合うものでなければならなかった。涙を流して悲しむことも、罪悪感に浸ることさえ許されないのではないかと感じ、ただ蒔野のためだけの、彼が思うがままの存在でありたいと願う。未来を思案したまま向かったイラクでの赴任中に、洋子はバグダットのホテルで自爆テロに遭遇する。そして、あと1つ質問をしていたら、自分はこの世界に存在していなかったのだという「サバイバーズ・ギルド(生存者の罪悪感)」に侵されていると気づく・・・。

 このように物語では、それぞれの愛と追随するように、「贖罪」がテーマとなっている。

 

 話は変わるが、我々は今、かつて人類が経験したことのない不確実な時代を生きていると思う。このブログを書いている2020年初頭から、アメリカとイランの緊張は高まり、第三次世界大戦という言葉が現実味を帯びてきている。大国の思惑の絡んだ各地での紛争状況は常態化したままで、先進国の中枢都市で無差別テロが起こっても、人々は大して驚かなくなってしまった。イデオロギーの対立だけではない。地球環境問題は深刻で、毎年のように異常気象・大規模災害が数多く記録されている。残念ながら、日本のメディアは、このようなニュースを積極的に取り上げようとしないし、日本人の多くは他人事だと受け止めるか、関心はあっても自分の周りのことで手が一杯だと言い訳をするだろう。根底にある自分や親しい人が危険に晒されなれば、それで良いという考え方も理解できる。しかし、あまりにも鈍感になっていないだろうか?時には、この小説に登場する人物のような、極限状態にある人々の心情に思いをはせることも必要ではないか。人間の本質を理解するために。

 「幸福の硬貨」は、ユーゴズラビア紛争時のクロアチアが舞台で、当時の凄惨さは少し調べれば、すぐに知れる。主人公はリルケを愛する若いクロアチア人の詩人で、彼が思いを寄せるのはセルヴィア人の美しさと質朴さが同居する少女である。複雑的な政治的背景は、上手く捨象され、壊滅的な世界で傷つきならも惹かれあう二人の極限的な愛の物語だ。タイトルの「幸福の硬貨」は、リルケ「ドゥイノの悲歌・第5番」に登場する。

 天使よ! 私たちにはまだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?

 そこでは、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、得も言わぬ敷物の上で、その胸の思い切った、仰ぎ見るような形姿を、その法悦の塔を、疾く足場を失い、ただ互いを宙で支え合うしかない梯子を、戦きつつ、披露するのではないでしょうか?

 彼らは、きっともう失敗しないでしょう ~ 死者たちは、銘々が最後の最後まで捨てずにおいた、いつも隠し持っていた、私たちの未だ見たこともない永遠に通用する幸福の硬貨を取り出して、一斉に投げ与えるのではないでしょうか?

 再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たちに向けて。

 

 現代の歌で例えると、スピッツの「愛のことば」に通ずるものがある。

 

 限りある未来を搾り取る日々から 抜け出そうと誘った 君の目に映る海

 

 出だしから、本当に唸るようなセンスの良さだと感嘆する。

 

 リルケスピッツ反戦的なメッセ―ジと、本質的な愛について歌っており、美しい。

 個人的にマチネの終わりにを読み終えての感想は、他の読者と比べるものではなく、自分の心にそっと閉まっておきたい類のものだ。私は、蒔野のような才能を持たない凡人で、尚且つ洋子のような理知的な優しさも持ち合わせていないが、それでも、この作品を大切にすれば、暗い森の中でも光が見えるではないかと思わせてくれる。平野啓一郎の文書は簡潔で読みやすいにもかかわらず、示唆的な表現が素晴らしい。構成もしっかりしている。時折、東大王の問題に出てくるような難読漢字にも遭遇するのも面白かった。

 次は映画の世界で マチネの終わりに に出会いたい。

未必のマクベス

 何も知らないまま、この小説を読み進めた。タイトルからして「未必」(意図的に実現を図るものではないが、実現されたとして構わない。刑法上では未必の故意を言う言葉で用いられる)の意味を知らなったし、シェイクスピアの「マクベス」も読んだことがなかった。加えて、早瀬 耕という人物も全く知らなかった。それもその筈である、彼は本書が22年ぶりの長編小説の刊行なのだから。

 早瀬 耕は、1967年生まれ。一橋大学商学部経営学科を卒業後、1992年「グリフォンズ・ガーデン」で作家デビュー。22年間の沈黙を経て、2014年本作を発表した。特に作家以外の仕事をしていたとの情報はない。

 シェイクスピアの「マクベス」は、1600年頃に書かれた戯曲で、シェイクスピア四大悲劇(他はハムレット・オセロー・リア王)の一つである。マクベスは、11世紀にスコットランド王として在位したマクベタッド・マク・フィンレックをモデルとしている。内容を要約する。

 3人の魔女の"fair is foul,and foul is fair."という科白から幕が上がり、マクベスとバンクォーは荒野で3人の魔女と出会う。マクベスは、「コーダーの領主、いずれは、王になるお方」と呼び止められる。バンクォーは「マクベスより幸せなお方。王を生みはするが、王にはならぬお方」と予言する。魔女の予言の通り、(マクベス夫人にそそのかされ)ダンカン王を暗殺し、スコットランド王となったマクベスは、バンクォーに与えられた予言が現実となることを恐れるようになる。そのため、マクベスはバンクォーとその息子フリーアンスに暗殺者を送り二人の抹殺を図るも、フリ―アンスを取り逃がしてしまう。心も血に染まったマクベスマクベス夫人は、再び3人の魔女を探し出し、「女の股から生まれた者は、マクベスを殺すことをできない。」・「バーナムの森がダンシネーンの丘に向かって来るまでは、マクベスは決して滅びぬ。」という予言を得る。しかし、最終的にマクベス夫人は心の病から命を亡くし、森が動き、帝王切開で産まれたかつての家臣がマクベスを殺してしまう。

 以上が本作を理解する上での基礎知識だ。ただ事前にこれらを知らなくても、作中に説明があるので心配は無い。

 さて、本書の具体的内容に話を移す。IT企業Jプロトコルの社員:中井優一(ナカイ ユウイチ)は、東南アジアを中心に交通系ICカードの販売に携わっていた。同僚:伴浩輔(バン コウスケ)とともにバンコクでの商談を成功させた優一は、帰国の途上、澳門の娼婦:ソフィから予言を告げられる―「あなたは、王として旅を続けなくてはならない」。この時点から、中井優一は”マクベス”として運命の渦に飲み込まれていくことになる。

 中井には、初恋の人:鍋島冬香(ナベシマ フユカ)がいた。鍋島は、高校の同級生で、(かな氏名が近いため)3年間ずっと中井の後ろの席にいたが、二人が交わした会話で覚えていることは限られている。数学が得意な鍋島が文系のクラスを選択した後、

「3年間同じクラスで、出席番号が並んでいるなんて、すごいと思わない?」。

「中井と鍋島だからね。」 

 ー 1年生のバレンタインデーの放課後、「これ、いいから受け取って!」とリボンのかけられたチョコレートを鍋島から渡され、「こっちは、出席番号が並んでいる単なる義理だから!」ともう一つ彼女のスカートポケットに入っていた不二家の板チョコレートを渡された。そして、中井がちゃんとお礼をした相手は、リボンのかけられた小箱を鍋島に託した女子生徒の方だった。鍋島はホワイトデーに袋入りのミルキーキャンディを渡したのが、精一杯のお返しだった。大人になった今なら、鍋島が(「リボン付きチョコレートに騙されるほど単純じゃないよね。私は中井を信じてもいい?」)言いたかったことが分かる。卒業後も中井は、インフルエンザで寝込んだ時と、マチュピチュに旅行していた日以外は、鍋島のことを忘れた日はない。

 このように男は、いつも女の子の本音に気づかない。或いは、本音に気づいているにもかかわらず、気づいていないフリをしていることが大抵だ。それは単に恥ずかしさからなのか、本音に気づいてたとしても、相手に甘えて、自分が決断や責任を負うことを避けているか。理由はいずれにしても、中井は入学式の時に後ろを振り向いて鍋島と目が合った日から、今後も自分が鍋島のことを忘れることがないことと、人生において鍋島が一番大切な存在となることを知っていた。本書にも書かれている通り、たとえ入学式の日に鍋島冬香の魅力に気づかなくても、3年間席が並んでいなくても・・・・・彼女がぼくを選んでくれた気がする。ぼくが持っているかもしれない魅力は彼女のためにあって、彼女は的確にそれを探し出してくれただろう・・・・・。本当の恋とは、当事者同士でしか分からない何かを共有するものだと思う。

 鍋島との約束を果たせぬまま30代後半となった中井は、会社の上司で離婚歴のある田嶋由記子(タジマ ユキコ)と夫婦にも似た関係を築くこととなる。由記子は、他人から見れば部下と不倫して旦那を捨てた女で、最初はシェルターとして中井の存在を必要としていた。中井も由記子を受け入れ、次第にその優しさと包容力に支えられるようになっていった。何より、由紀子に嘘がつけないこと(嘘をついても見抜かれること)がお互いの絆を物語っていた。そして、読者に「由記子」はマクベス夫人なのだろうか?という問いを投げかける。

 少し前に出てきた中井の同僚、伴浩輔も高校の同級生で偶然同じ会社で働くこととなる。伴はその読みから、入学時に初老の女性教師から「バンコー」という渾名を付けれる。伴からすれば、その瞬間から”マクベスの戯曲”が始まったという。伴にとっては、その時から、中井がマクベスで鍋島がマクベス夫人だったのだ!伴によると、中井は北極星のように、意図しても意図せずとも(王として)世界の中心として君臨しているという。

 戯曲は進み、香港の子会社(Jプロトコル香港)の代表取締役として出向を命じられ香港に移住した中井は、やがてそこがアペンディクス(決して逃げられない場所)だと知る。そして戯曲の登場人物として、周囲の人々を巻き込んでいることも。

 始まりは一見、普通のサラリーマンだった中井優一が、気づかぬうちに王として旅に出ていたことを知り、人間の欲望や社会の闇と向き合うことを余儀なくされる。運命に定められたまま生きることを受け入れるのか、何かを犠牲にし、運命を変えようもがくのか迫られる。そこまで境地に至らなくても、似たような感覚は、誰しも抱いたことがあるのではないだろうか?どうせ自分はこうだから上手くいくはずないとか、(過去の経験側から)物事を諦めてしまいがちな傾向のこと。本書はその点にも疑問を投げかける。時に数少ない情報や問いかけからでも可能性に賭けてみる価値はあるということだ。

 

 6と9が点対称でなかったと仮定した時に、積み木カレンダーは成立するか否かを証明せよ

 

 という1つの問いで人生が変わったように。

 

 個人的には本書を読みながら、時間について考えることが多かった。過去に運命的な人に出会っていたとしても、些細なすれ違い(人々は大概、それをタイミングと表現する)で結ばれなかった両者は、将来再びめぐり逢ったとしても、元々の運命を取り戻せないのだろうか。そうさせるのは、時間の変遷に伴う人間的変容だと諦めるか、若しくは、我々は宇宙にある星々の周期のように、近づいては離れていく定めだと諦めるしかないのだろうか。読み終えて、運命を変えられるかの是非はともかく、誰かを強く思う気持ちを思い出させてくれ、嫌みのない感動を得たことは確かだ。

 読む人によっては、経済小説かミステリー小説としての側面が大きいと感じる人もいるだろう。話は長く(文庫にして約600p)、登場人物も多様で誰が本当のことを言っているかも定かではないので、一読で全てを理解するのは不可能に近いだろう。昔似たような小説を読んだことがあるなとしばらく考えて、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」村上春樹 作 だと思い出した。村上春樹の方はファンタジー性が強く、本書はより現代に寄った内容となっている。

 最後に、表紙カバーの写真について。夕暮れ時の香港のフェリー停泊場の写真だ。フェリーが建物に横付けされている。海にはさざ波が見られ、夕日を反射して所々薄オレンジ色に染まっている。背景には香港の高層ビルの影と淡いオレンジ色の均一な空が広がる。不思議なことに、本書を読み進めていくに連れて、カバーを見て抱く印象も微妙に変化していったのである。香港に行ったことはないが、その土地の匂いが感じられるとうで、実際に香港に行った時には、この場所を探すことになるだろう。なので、私はこの写真が好きになった。

 これも戯曲がなせる業だろうか?