月の満ち欠け

 『月の満ち欠け』は第157回直木賞受賞作である。現代の直木賞は、当初の無名若しくは新進作家の大衆文芸という規定からかけ離れ、実質的にはすでに作家としてのキャリアを積んだ者のための賞となっている。

 佐藤正午は、1955年8月25日、長崎県佐世保市生まれ。小説家になるために北海道大学文学部を中退、故郷の佐世保に戻り、2年がかりで書き上げた長編小説「永遠の1/2」ですばる文学賞を受賞。何故長崎からはるばる北海道大学まで北上したにもかかわらず、大学を中退したのか気になったが、小説を読み進めることとした。

 

 ある日の午前11時。小山内堅(おさない つよし)は東京駅に降り立ち、女優とその娘:るりと東京ステーションホテルのカフェで会う。小山内は、青森県八戸市市で育ち、東京の私大に進学後、石油元売りの中堅企業に就職。大学時代に同じ高校出身の藤宮梢と付き合い始め、結婚する。二人が初デートで観た映画は、タクシードライバー(1976年 監督マーティン・スコセッシ)だと言う。ロバート・デニーロが、愛に狂うタクシードライバーとなる映画は、全くデートに適さないと思うものの、小説を最後まで読むと何故タクシードライバーだったのか納得がいく。小山内の妻:梢のたっての希望で二人の娘は、瑠璃(るり)と名付けられた。このように、何人もの瑠璃(るり)という人物が登場する。一体、君は誰なんだ?という疑問を投げかけながら。

  瑠璃も玻璃も照らせば光る 

素質・才能のある人物はどこにいても、目立つ意)の の瑠璃。古代インド・中国における宝、アフガニスタンラピスラズリを指すものであろうとされ、後に色つきガラスも指すようになった。野鳥の世界でも、オオルリコルリルリビタキという三大青い鳥の呼名に瑠璃が含まれている。幸せの青い鳥というように、青い鳥と出会うことは幸福の予兆だとされる。それぞれの瑠璃という女性は、亡くなったとしても、愛した人にとって幸せの青い鳥のような存在となる。

 科学的に考えると、死後の世界は「無」だ。生きとし生ける者は皆、死ぬ運命であがなうことはできない。最近の研究では、不老不死に一番近い性質を持つ生き物としてハダカデバネズミが関心を集めているものの、永遠の命は、究極の非科学的な事象に感じる。だからこそ、古代から人類は未来に賭けて、伝説や宗教にみられるように、月の満ち欠けのように、死んで生まれ変わることを信じてきたのではないか。

 愛する人を失った者は、遺伝子を受け継いだ子に面影を探し、街で似た人とすれ違うと、もしかしたらあの人ではないかと錯覚する。果たせなかった約束を想い、あの人は死んでも死にきれなかったのでなないかと悔やむ。亡くなった原因が自分にあると思えば、なおさらだ。生きていれば築けていたであろう将来や未だ明かされていない秘密はあったのだろうかと順々に思いを馳せる。そして、新たな命として、愛するが生まれ変わったとしたら、もう一度出会いたいと願う。

 小説の中で、瑠璃と出会う三人の男は、言ってみればどこにでもいるような人物だ。夜の新幹線のホームで疲れ切った顔をしている男、町の工場で汗をかき手を黒くさせ毎日決まった時間に親の待つ家に帰る男、運よく出世コースに乗り会社の重役となった堅物な男、そんなリアルさがある。普段から他人の人生を垣間見るような仕事をしていると、(誠に不謹慎だが)他人の人生の価値を勝手に評価してしまい、その人に何が起こっても何も感じなくなってしまう深みに嵌る。他方で、現代はSNSが普及し、誰もが簡単に社会へ自分の人生の価値をアピールできるようになった。他人の人生の方が輝いているように感じられ、遂には他人と比べることに疲れ果ててしまう・・・。このような現象は、本来等しく扱われるべき命の見えない軽視であろう。

 ここに風穴を空けている。普通に見える人でも、忘れ得ない人生の出来事を持っているのでないか。常識では考えられないような、運命の赤い糸があるのではないか。

 個人的に読み終わって想起したのは、 チューリップ 青春の影 のような昭和に合う慎ましやかなカップル像だった。

 

 佐藤正午は、生まれ変わりという、ともすれば軽薄になりがちな題材を上手く纏め上げている。大衆に読まれることを意識しており、平易な内容で、若干物足りなくも思った。それでも、現代的な会話で、小説の良さを伝えているので、繰り返し読んでも楽しめそうだ。

 次の候補は 鳩の撃退法 だ。